僕はあの日から右目だけでは
見たいものが見えないんだ。
大好きなひとの顔も
きれいな景色も
美しい文字も
なにもかも全て
いつも黒い点に邪魔される。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
目の前が真っ暗になった。一瞬の出来事で、なにが起こったかわからかったが、バッティングセンターにいることだけは確かだった。
小学校5年生のとき、
右目に野球ボールが当たった。
1週間ほど経ってもずっと充血していたので、お母さんから「本当に大丈夫なの?右目だけで見える?」そう言われて左目を閉じてみたら絶望した。
右目が見えないんだ。
ただ完全に見えないのではなくぼやけてみえる。
急いで病院にいった。すぐに診察室に通されて告げられたのは、「直ちに入院してください」という一言だった。小5の僕にもその意味がわかる。深刻だということが。
でも、早急な対応とはうらはらに、入院生活はなにもおきることなく淡々と過ぎていった。点滴をして、ご飯を食べて、診察をうけて寝る。これの繰り返し。深刻かとおもっていたけど案外たいしたことなんだなとおもってた。
そんな生活が1週間が過ぎると右目の充血はなくなった。安堵した。これでみえるようになる。元どおりになると。眼帯を外し、期待と不安を複雑に入り混じった感情でゆっくりと目をあけた。
見えた。普通に見えた。
そう思って右目だけで見てみると、黒い点がぼくの世界の中にいる。寝ぼけているのか、夢をみているのか。何度目をこすっても、何度ほっぺをつねっても、黒い点がぼくの世界から消えることはなかった。
治ってはいなかった。
またも絶望した。
2度目の絶望は、1度目の絶望よりも楽かと思っていたが、そうではなかった。むしろ前のときは治療前の絶望で、今回は治療後の絶望だったからはるかにつらかった。
黒い点があるということをお医者さんに告げ、急いで診察すると、
手術すれば治るかもしれないが、再びみえる確率は極めて低い。さらに手術をすることにより引き起こされる合併症の確率も高い。今は経過を見守るのがいちばんです。
残酷だった。手術しても見えるようになる可能性は極めて低いうえに、合併症を引き起こす可能性があって、さらに悪化することもあるだなんて。手術をするのは一か八かだった。
ぼくは両親と相談した結果、手術はしないことにした。一か八かにかけて悪化するより、今のままの方がよっぽどいいとおもったからだ。
だからいまでも右目だけでは見たいものが見えない。
黒い点がいつも僕の邪魔をする。
▪︎少しだけ僕の見えている世界を解説すると、この下の写真の赤い丸のところのあたりがボールが当たった衝撃で穴が開いている。その穴が僕の世界に黒い点となって現れているんだ。
http://www.me-kaiteki.com/eye-mechanism/eye-structure/
例えば、この上の写真の僕の顔を右目だけでみようとすると、
こんな感じになって見える。黒い点が僕の本当に見たい焦点に移動するから、見たいものが見えなくて、見たいものの周りだけが見えないんだ。
でも幸い左目があるおかげで、みんなと同じように見ることが出来る。右目の見えないところをカバーしてくれてるから、負荷がかかりどんどん視力は落ちているが、見ることが出来る。
だから僕にとって「見える」ということは特別なことなんだ。
何もないと思った先に残るものは大切なひとだった
目の見えないやつに野球はできない、目の見えないやつの友達だなんていやだ、目の見えないダサいやつには誰も振り向いてはくれない。なにもかも終わったと勝手に思った。人生はこんなにもあっけないもので残酷なんだと勝手に思った。
だけど、このときお母さんが人生でいちばん大切なことを教えてくれた。
いい?こういうとき、本当に心配してくれるひとたちをこれから先ずっと大切にしていきなさい。そのひとたち以上に大切なひとはいないのだから。絶対にわすれちゃだめよ。
この言葉は忘れることができない。何をかくそうこのとき、ぼくを野球に誘ってくれて、毎日一緒に練習をして、親友と思っていた友達はお見舞いには来てくれず、ひどく傷ついていたからだ。退院してもそんなに交わす言葉もなく、疎遠になった。
一方で、お見舞いにきてくれた友達は、なかなか会えないけど、あったときはまるで毎日一緒にいたかのような感覚でいられて、ぼくが心の底から笑いあうことが出来る、そんな心友になっている。
失ったものと引き換えに得たものは、ぼくにとって一生大切にしたいと思う心友だった。
他にも大きなものを得ることができた。
ひとの「優しさ」だ。クラスみんなからの寄せ書きであったり、お見舞いに来てくれる友達であったり、病院の先生方であったり、家族の支え。
ひとつひとつの優しさが僕を支えてくれた。この経験があったからこそ、ひとにやさしく出来る。やさしさをより感じれる。生きてるという実感と生かされているという実感がわいた。
なにもない、なにもかも失ったとおもったけど、失ったものは1つだけで、得たものの方がはるかに大きかった。
みたいものがみれるというのは最高のしあわせだと僕はおもう
あなたはきっとみえるとおもう。いまこの記事を読んでいることがその証拠だ。大好きなひとの顔、おいしそうなご飯、きれいな景色、感情ゆさぶる文字、なにもかも全て見えているとおもう。
そうやってみたいものを何にも邪魔されずみれるということは、最高にしあわせなことなんだと知っておいてほしい。
当たり前のことを当たり前ではないと思うことは、難しいことかもしれないが、ときどき当たり前のことを振り返ってしあわせなことだと感じてほしい。
しあわせは気づいていないだけで、たくさんあること忘れないでほしい。
ぼくは自分のことを不幸だとは思わない
ぼくは自分のことを不幸だなんて思っていない。先ほどもはなしたが「見えない」ということで僕が手にしたものの方が大きい。
いつか見えなくなるかもしれないという不安が、僕に一歩踏み出す勇気をくれる。東京にでてくるときも、恋愛の仕事で生きて行く決めたときも。大きな決心をするときは特にだ。
こうやって文字で伝えるときもそう。ひとつひとつ言葉にのせる「想い」がある。
誰かと会うときもそう。その人の顔みて話せるということがぼくにとってはすごくありがたい。やっぱり顔をみないとそのひとの本当の気持ちを読み取ることはできないから。
そう考えていくと、見えなくなったからこそこの仕事をしているのかもしれないと思う。恋愛という男女がふたりが見つめ合いながら歩んでいくことを手助けしたり、僕の考えや想いを文章にして伝えたりと。見ることへの想いがあるからこそ出来るのかなと感じる。
うん。やっぱり見えないことで得たものの方がはるかに大きい。それに気づけたぼくはしあわせものなんだと思う。
あなたはどんな日々を過ごしている?
あなたはどんな日々を過ごしている?日々をなんとなく過ごしていないだろうか?今日も悪くはなかったと思ってすごしてないだろうか?疲れたと言って何もせず寝てしまう日々を繰り返していないだろうか?
今日という日を丁寧に生きないのは、あなた自身に失礼だとおもう。あなたが心から過ごしてたい日々を過ごしているのならそれでいいとおもう。それよりしあわせなことはない。
ただ流されてるだけ、ただなんとなく過ごしているだけなのなら、悪くない日々が少しでも良い日々になるように、少しでもあなたが幸せになれるように考えてあげてほしい。
そうやって1日1日を丁寧に生きて欲しい。そういう僕も、ついついめんどくさいからサボったり、流されてしまう日もある。あなたに言っているようで僕自身にも言い聞かせてる。
だからね、今日も明日も明後日も。少しでもしあわせな日々になれるように一緒にしていこうよ。僕も顔晴るからさ。
あなたの日々が少しでもしあわせになることを願って。
最後まで読んでくれてありがとうございました^ ^
▽あわせて読んでみてください
▽こちらも合わせて^ ^
「ゆーしに直接恋愛相談」と「お友達追加してくれた方しか見れない愛され女子コラム」を載せているLINE@ゆーしもきくからが400人を超えました♪✨ブログを見た人はLINE@も一緒にチェックしてください^^→LINE@で恋愛相談と恋愛コラムやってるよ♪